SNSは必要か?
SNSがどうしても必要だとしたならば、もっと制限をかけるべきでしょう。
誰でも、どこでも、誰にでも、何でも伝えられる・・のは無謀でしょう。
SNSは個人の平等という面からは、かなり模範的な機能であることは間違いないです。
誰にでも、個人の意見を投げかけることができるのですから。
でも、その意見に、投げかけた本人が責任を持たないのは、おかしい。
発信元が誰かわからないのは駄目だ。
石を投げつけて、知らんぷりするのと同じです。
無責任すぎる。
折角、表現・思想の自由を行使できるチャンスを得ているのに。
残念ながら、人間そのものが、そこまで成熟していないからです。
その自由を謳歌出来るほど、モラルが形成されていない。
それ相応の倫理観が育っていない・・のが現状です。
ルールが無ければ、社会という機能を保てないのが人間。
ルールがあって、初めて社会のシステムが機能する。
自ら自制して、良心でもって行動出きる人間などほんの一握り。
人間は、平等を訴えながら、同時に不平等であるとも訴えられる。
平等のみを感じ取れる人間などほとんどいません
。
みな、不平等であると思っている。
戻ります。
SNSは、本人の所在を明らかにするか、そうでないならば、他人を誹謗中傷するような文を打った人間は、厳罰処分にするべきです。
どんな文を誹謗中傷の対象とするからは、例文を、具体的に細かく提示する。
そうでもしないと、被害はもっともっと拡大していくでしょう。
早く、手を打つべきです。
与野党越えて討議して、ルールを設定した方がいいでしょう。
爆弾が落ちる日
近い将来、日本に爆弾が落とされてもおかしくはない。
自分の家に、拳銃も持った輩が無断で入って来て、そのまま裏口から出て行ったようなものだ。
それを・・放置していいのだろうかという問題。
この問題を、残念ながら、今の日本では解決できない。
そもそも、着弾しない・・という前提で生きているから。
落ちるという設定が無い。
そして、落ちたらどうする・・という設定もない。
反撃するという選択肢がないから。
憲法9条には、全ての交戦権を認めないと書いてある。
それに縛られている。
それがあったから、日本はこれまで平和だったと勘違いしている。
たまたま、戦後アメリカが調子が良くて、日本の後ろ盾になってくれてたという背景を理解していない。
日本は、平和ボケしている。
それゆえに、爆弾が落とされる・・という設定をシュミレーションできない。
もちろん、爆弾を落とす・・というシュミレーションは日本には全くない。
が、だからといって、他国まで同じように爆弾を落とさないとは言い切れない。
もう、その平和過信から離れなければいけない。
多くの人たちがそれを指摘しているのに、世論は全く動かない。
それは、メディアが不正確だからだ。
メディアが、スポンサーの顔を見て情報を流しているから。
スポンサーありきの情報に成り下がっているから。
で、ここにきて、国営放送のNHKも頼りがない。
ポリシーがない。
民衆に迎合することを考えている。
そうなると・・
近く日本は、言い方は悪いが、ウクライナと同様に攻められる可能性が出て来る。
良心を信じるだけでは、埒があかないことを、早く日本国民は気づくべきだ。
エゴイスティックに自分の利益のみを誘導するのではなく、国がどうなるかをもっと真剣に考え、討議していかなければ、日本の未来は暗い。
・・被害に遭ってからでは、遅い。
被害に遭ったら、どうするか・・
もっと具体的なシュミレーションを立て、国民は他人事とは思わず、自分のこととして真剣に考えなければならない。
もう・・遅いかもしれないが。
アントニオ猪木が亡くなった。
アントニオ猪木が亡くなってしまった。
会ったことも無いのに、ずっと敬愛していた。
何度選挙で、「アントニオ猪木」と書いたことか。
猪木が出ていようと、出ていまいと、「アントニオ猪木」と書いた。
無条件で、猪木が絶対だった。
何故だろう?何故に猪木なんだろう?
ただ戦っているだけじゃないのが・・わかったから。
自分の為だけに戦っているんじゃないのが・・わかったから。
私利私欲のために戦っていないのが・・わかるから。
魂で戦っている。
生きるために、誰かの命を見つめるために、誰かに思いを伝えるために戦っていた
。
自分を犠牲にして。
誰かのことを思っている。
それが、わかったから。
うちの親父が、歩けなくなって車いすになった時、それを嫌がる親父に、
「猪木も車いすにのっているんだ。あの猪木でさえ、車いすになってしまうんだ。諦めろ。」と言った。
猪木の胸の内などわかろうはずもない。
ただ、猪木よりも長く生きることになることをしっかり受け止めて、何か・・自分のできることに魂で動いていきたい。
猪木の大ファンとして。
新庄の面白さ
人間が面白いのだろう。
そもそものキャラクターが面白いのだろう。
もちろん、会ったこともないから、内実はわからない。
でも、あの言動みていれば、おおよその見当はつく。
コメント、アクション、パフォーマンス。
大体が、飽きさせない。
元々もってきた天性の素質だろう。
特に、私は去年まで日ハムのファンではなかったが、今年から日ハムの試合はほぼ欠かさず見ている。
選手の名前も覚えた。
来年は、松本剛、近藤、野村、清宮、上川端、がメインになって活躍するだろう。
今川は少し感情のコントロールをしないと辛い。万波は空振りが酷い。
谷内と中島、そして怪我から戻って来る浅間、そして宇佐美と石井。
その辺で何とか戦って、どうなるか。
優勝、それも日本一を目指すと新庄は言っていたが、一位を目指せるような期待を最後まで持たせてくれればそれでいい。
常に、選手がベストのパフォーマンスをしてくれればそれでいい。
あとは、ピッチャーか。
ピッチャーが今一つだから、ここをしっかりと整備して欲しい。
勝ちゲームを、簡単にひっくり返されないように。
来年が、楽しみ。
これは、間違いなく「新庄効果」。
病気とか、事故とか・・そういうアクシデントに気を付けて頑張って欲しい。
国葬が終わった。
安倍元総理の国葬が終わった。
私は、元々国葬には賛成だったから、粛々と行われたことに安堵している。
何度も言っているが、反対は誰でもできる。賛成が難しい。
この・・多様性をまるで美徳のように吹聴している世の中においては、言論の自由はもはや意味はない。なぜなら、もう言論を統制することなど出来るわけがないから。
出来ないものに意味付けようとしても無駄だ。
中国や、ロシアのような強制的思想統一がいいわけではない。
が、日本人としてのスピリットのようなものを国民が共有することは必要だ。
人間として・・といえるのは、所属している民族のバックボーンがあるから考えられる。
所属する民族が不明では、宇宙に浮遊しているのと同じ。
どうして、今の日本人はその辺がわからないのだろう。
日本のために、命を懸けて生きた人たち、先人たちの想いを、もう少し考えてもいいのではないかと思うだけ。
「今は、日本とかアジアとか、そういうのではなくて・・国際的レベルで考えていかないと・・」
そんな、戯言につき合っていったら、とんでもないことになるでしょう。
山県有朋が死んだのが、今からちょうど100年前の1922年。
翌年、関東大震災。そして治安維持法ができ、張作霖爆殺事件、金融恐慌、満州事変・・とてつもない激動の時代を迎えていく。
・・誰も、先のことはわからない。
が、少しだけわかる人もいる。
それが、リーダー。それが、安倍元首相であり、菅義偉さんなのではないかと思う。
ちなみに、
私は、自民党員でも何でもありません・・
ホラン千秋の弁当
ホラン千秋の弁当・・
あれが、本当だとしたら、ホランはかなり人間的な部分で魅力に溢れていると思う。飾らない。飾らなすぎ。狙いではなく、それが常だとしたら、間違いなく面白い人間だと思う。
もちろん、おいしそうな弁当を作る人を否定しているわけではない。
ただ、あの弁当を普通に食べているのだとすれば、それは逞し過ぎる。
あれっ?そういえば、テレビ局で弁当を支給されるんじゃないのか・・。飯には困らないんじゃないのか?むむ・・あれは、いつ食べるんだ? あの中途半端なチャーハンと、きゅうりの漬物?半分は・・。
笑いをとっている?
真相が見えないが、でも、興味を沸かせてくれる。
これからの、彼女の言動に、注意深く気に留めて、注目したいと思う。
寿命
どうして、・・こんなにも暗い情報が多いのだろう?
明るい情報だけで、新聞が埋まってしまうような日が一日くらいあってもいいはずなのに。思いもせず、無くなってしまう人が絶えない。必ず、思いがけない悪質で亡くなってしまった人の記事が載っている。
人間の寿命が分かればいいのに・・、と私は思う。
いつまで生きるのかわかれば、こんな有難いことはないのにと私は思う。
そう思わない人も大勢いるだろう。
「自分の寿命がわかったら、未来に対する期待感がなくなるだろう。」と。
でも、私は逆に・・
「いつ死んでしまうのかわからない不安」が消えてしまうことの方が喜ばしい。
産まれる時は、自分の意志が反映されないのだから、せめて終焉の時くらい自分の意志を反映させたい。
『邯鄲』では、自分の将来を見てしまった人間は堕落してしまうが、果たしてそれが全てだとは思わない。「不条理な死」に遭遇することを、条理にしてしまうだけでも意味はある。
「生」にしても・・いつまで続くのか・・と見えない先行きに煩悶するよりは、計画性を持って生きることが出来る。
世の中には、一般論で語れない事情はたくさんあるのだ。
先日、広島で、中学生の姉妹が線路内で自殺した。
もちろん、詳細は一切わからない。が、いたたまれなくてしょうがない。
どんな事情があったのか・・
もしも・・その事情が少し前に予見できていたとしたら、どうなっていただろうか?と考えてしまう。
人は・・予期せぬトラブルに巻き込まれた時、「生きること」「生きていくこと」に疑問を抱いたりする。
「どうして、自分の身にそんなことが・・」とか「そうなったら、もうお終い・・」とか、あっという間に絶望の淵に追い込んでしまう。
事前に、何かしらわかっていたら。前もって命の期限がわかっていたら。
自分が、一か月後に、死ぬとわかっていたら・・
もしかしたら、それを回避するために動けるかもしれない。
日々を見直すきっかけを与えてくれるかもしれない。
・・もちろん、予定通り、執行されることもあるだろう。
でも、突然湧いてくるよりは・・まだ、益しな気がする。
・・ま、私は無理な希望を述べているに過ぎない。
何か、無性に虚しいのだ。
中学生という歳で、それも姉妹で自殺してしまうなんて・・、何とかならなかったのか!と思ってしまうのだ。