寿命
どうして、・・こんなにも暗い情報が多いのだろう?
明るい情報だけで、新聞が埋まってしまうような日が一日くらいあってもいいはずなのに。思いもせず、無くなってしまう人が絶えない。必ず、思いがけない悪質で亡くなってしまった人の記事が載っている。
人間の寿命が分かればいいのに・・、と私は思う。
いつまで生きるのかわかれば、こんな有難いことはないのにと私は思う。
そう思わない人も大勢いるだろう。
「自分の寿命がわかったら、未来に対する期待感がなくなるだろう。」と。
でも、私は逆に・・
「いつ死んでしまうのかわからない不安」が消えてしまうことの方が喜ばしい。
産まれる時は、自分の意志が反映されないのだから、せめて終焉の時くらい自分の意志を反映させたい。
『邯鄲』では、自分の将来を見てしまった人間は堕落してしまうが、果たしてそれが全てだとは思わない。「不条理な死」に遭遇することを、条理にしてしまうだけでも意味はある。
「生」にしても・・いつまで続くのか・・と見えない先行きに煩悶するよりは、計画性を持って生きることが出来る。
世の中には、一般論で語れない事情はたくさんあるのだ。
先日、広島で、中学生の姉妹が線路内で自殺した。
もちろん、詳細は一切わからない。が、いたたまれなくてしょうがない。
どんな事情があったのか・・
もしも・・その事情が少し前に予見できていたとしたら、どうなっていただろうか?と考えてしまう。
人は・・予期せぬトラブルに巻き込まれた時、「生きること」「生きていくこと」に疑問を抱いたりする。
「どうして、自分の身にそんなことが・・」とか「そうなったら、もうお終い・・」とか、あっという間に絶望の淵に追い込んでしまう。
事前に、何かしらわかっていたら。前もって命の期限がわかっていたら。
自分が、一か月後に、死ぬとわかっていたら・・
もしかしたら、それを回避するために動けるかもしれない。
日々を見直すきっかけを与えてくれるかもしれない。
・・もちろん、予定通り、執行されることもあるだろう。
でも、突然湧いてくるよりは・・まだ、益しな気がする。
・・ま、私は無理な希望を述べているに過ぎない。
何か、無性に虚しいのだ。
中学生という歳で、それも姉妹で自殺してしまうなんて・・、何とかならなかったのか!と思ってしまうのだ。