mousimouzou’s blog

気になることを言葉にして、消化させようと書きつけます

円安

 円安が進んでいる。

今後、日本の経済・・または、我々の生活に、どのような影響を及ぼしてくるのか?

・・注視してその動向を見ている。

経済の詳しいメカニズムはわからない。

だから、高橋洋一チャンネルを見て知識を得ながら勉強している。

 円安・・は、マスコミが騒ぐほど大変なことではないと・・高橋さんはいっている。

コロナで世の中がアタフタした時も、「大したことは無い(さざ波である)」と言ったが、今回の円安も、国際的なスタンダードに照らすと、そこまでバタつくことでもないらしい。

 確かに、輸入業者にとっては、原油価格の高騰でうまく価格転嫁が出来ないから、その辺は解決しなければならない課題ではある。が、輸出業者目を向ければ、有難い状況なのである・・と。

 高橋さんは、数字を明らかにして、オブラートに包まないで説明してくれるからわかりやすい。

日本が所有している米ドルを売ったならば、その売却益でかなり収益が上がるとも言っていた。

 しかし、・・日本の政府は、また関係官庁は、どうしてそのような人の意見を真剣に受け止めようとしないのか?

誰に、配慮しているのか?

何に、怯えているのか?

岸田総理は、聞く耳を持ちたい・・と言った。

それは、色んな人の聞いて、それを理解し、それに対して説明をする・・という意味だと思ったが、今の所、まだ国民を納得させるだけの説明が出来ていない。

 正直に話せない事情があるのだろう・・。

それは、わかる。一国のトップの権力者なのだから、色んな目くばせをしなければならない。

が、・・しかし、これだけ先の見通しが不明瞭な時代なのだからこそ、大胆な正直さが必要なのではないだろうかと思う。

正直に話して、正直に議論して、そして多数決で決めればいい。

多数決の原理で、過半数を越えればその意見が支持されるだから。自信を持って臨んで欲しい。

 少数意見の声は、大事だ・・それは、わかる。

でも、それに気を取られていては、強いリーダーシップはとれない。

いつ、日本が侵略されるかもしれないという時期に入っているのだから。

・・だから、岸田さんも、あえて言わせてもらえば、ゴルフなんてしている場合じゃない。

苦しんでいる人たちのことを思えば、笑ってゴルフはできないはずだ。

それは控えてもらって、まずは、正直な思いを伝えて欲しい。

周囲を見渡し欲しい。

 本当に、日本のことを思っている人は誰なのかを。

エゴイスティックな人ではなく、誠実な人は誰なのかを。

利益誘導型の人間たちの意見よりも、誠実に生きている人間たちの意見を聞いて欲しい。

 

隠れることも必要です・・。様子見。


耳は二つしかありません。

だからこそ、有効に、使って欲しいと願っております。

 

矢沢永吉コンサート強行について

お手上げ・・です


 私は、矢沢さんが、そう決断したならそれでいいと思う。

勇気のいる決断だったと思う。

来場者の安全を考えない主催者はいない。

が、また来場者の気持ちを考えないパフォーマーもいない。

いずれも、大いに検討したうえでの結論だったのだと思う。

 

 非難するのは、簡単だ。

外野の避難が多すぎる。

「このテレビ番組の内容が悪質だ。」「どこでも煙草を吸ってはだめ。」「なんでもパワハラだ。」「気に入らなければセクハラだ。」「原発は反対しておく。」「何でも反対。」・・

 自分が、その場面に直面していないくせに、したり顔で、批評する。

他人のことに口を挟みすぎた。

口を挟むんだったら、もっと褒めて欲しい。

いいところもしっかり、見て欲しい。

 

反対ではなくて、それに賛成だ!いいことだ!・・とほめたっていいじゃないか!

 反対しなければ、世論が喜ばない(納得しない)と勝手に思っているのかしらないが、何でもかんでも反対、ダメ。

揚げ足とり。

もっと、賛成して欲しい。共感してほしい。

 

矢沢さんの、コンサートに行った人が、発言するならまだいい。

全然、行ったことも無い人が、まったく興味の無い人が、それは駄目だ、モラルに反する・・とか、無責任な発言は止めた方がいい。

 

何で、みんな反対するんだ。

もっと、賛成しよう。・・何でもかんでも反対、批判ばかりしないで!

明日が来る保障

私には明日が見えている・・と思う。


 明日は、本当にやって来るのだろうか?

不幸にも、全ての人間に、明日がやって来る事は無い。

残念だが、それなりの数の人間が、明日を迎えることはできない。

 突発的な事情で、または予想もしないアクシデントで、明日が来るのを拒まれてしまうから。

 それは・・、そんなことが起きてしまったら、残念で仕方がない。

先日「自殺幇助」の必要性を書いたが、それは、死を自らが選択することの大切さを言いたかったわけで、アクシデントで死んでしまうこととは、比較できない。

「不条理な死」くらい辛いものは無い。

死ぬことを予期せぬまま、死んでしまうことくらい儚いものはない。

 

 今・・これまでに経験のないくらい大きな規模の台風が上陸しようとしている。

突発的な、不慮の死が発生しないことを、願うばかりだ。

・・何が起きるかわからない。

人生は、予想がつかないから。

でも、出来るだけ未然に防げるものは対処すべきだろう。

当たりまえのことを言っている。

・・が、当たり前のことが、死を呼んでしまうこともある。

当たり前のことが、死につながってしまうこともある。

 

 当たり前が、当たり前で無くなってきている気がするから。

過去の平和が継続される保証は、もう期限が切れている気がするから。

 そんな時が、もうすぐ我々のもとに、やって来そうで怖い。

地球が、世界が、人間が、・・大きく変化させられそうで怖い。

 

 人間は、地球の変化に、ついていけない・・。

ついていけないことを、人間は気づいていない。

 それが、一番・・恐ろしい。

原発再稼働

ゆっくり、眠らせてくれぃ


 原発が再稼働されるらしい。

様々な意見があるだろうが、私は賛成です。

理由は、単純です。

電気が止まらないようにするため・・です。

今、現在の世の中で、電気がない日常は考えられないでしょう。

・・そんな世の中を作ってしまった功罪は・・今度考えるとして、まずは、電気を止めない事を最優先にするべきでしょう。

 「将来の世代に大きな代償を残しかねないから、反対!」

というのは、簡単です。

反対するなら、電気が止まっても、反対する覚悟があるのだろうかと、逆に聞いてみたい。

「それは、それ。・・まずは、原発反対!」

では、埒があきません。

原発の代替えがないのだから、仕方がありません。こんなのは、誰だってわかります。

できるなら、原発は使いたくない。でも、電気が止まるくらいだったら使わなければならない。当たり前です。

・・使いながら、原発の代替えをどうするのかを考える。

または、電気を使わない世の中を作っていけるのかどうか検討する。

どちらかを、真剣に議論すればいいのです。

 理想論や、希望を言っているだけでは、餓死しますね。

原発を反対する人たちは、それなりに、余裕がある人たちなんでしょう。

ガソリンの値段が上がっても、どこかへ、旅行できる人たちなのでしょう。

 もう、庶民は嫌気がさしている。

せめて、原発稼働させ、電気代を下げてもらいたい。

そう、願っているのです。

かく言う私も、新電力会社から少し前、月20万円近くの請求が来て、飛び上がるほど驚いたところです。

原油の輸入費用がかさんで・・との理由でした。

新電力会社で、安く電気代をしようともくろんだ私も悪い。でも、急にそんないつもの10倍近い値段の請求がくるのもおかしい。

 

原発が稼働し、電気がそれなりに潤沢に供給できることを、切に念願します。

 

デジタル教科書

足をなめられるか?


 どうして・・「デジタルの教科書」が必要なのか?

安倍元総理の国葬の問題よりも、そっちの問題の方こそ話し合いが必要だと私は思う。

裏でお金が動いているのだろう・・と勘ぐってしまいたくなる。

 子供達を、どこまで腑抜けにしたら気が済むのか・・

スマホが、SNSがここ5年くらいで急速に浸透しましたね。

今やコンピューターゲームをしない子供を見たことが無い。

 

それで、いいのですか! 見て見ぬ振りをするのですか、大人たち!

 

 経済を回す必要があるからといって、子供に(必要以上の)お金を使わせてまで経済を回す意味がどこにあるのですか?

 子供達の生活は、電気が無ければ動かなくなりますよ。

自分たちで、自然の中で生きていく力が無くなってしまいますよ。

 

 全国の292の自治体が、小中校に導入完了しているらしい。

それが、子供達にとって、本当に為になるものだと確信して導入しているんですか?と問いたい。

 我々は、先人たちの歴史からしか学べない。

だから、もっともっと歴史を学ばなければならない。

どうですか? 司馬遼太郎さんが、パソコンの全校支給はいいね・・と言ってくれると思いますか? 石原慎太郎さんが、海音寺潮五郎さんが、小林秀雄が、黒澤明が、夏目漱石が・・諸手を上げて賛成してくれると思いますか?

 

もう、死んでしまっているんだから、反対も賛成もわからないだろう・・

と言われるでしょうね。

 

 だから、今の世の中はおかしいんですよ。

だから、上岡○○〇さんさんが、2000年で引退したんだと思いますよ。

もう、色んなことが傾き始めているのは明らかです。

日本が無くなっていくだけじゃない。人間という種族の存在が危うくなり出している。

 

 お金は・・お金を追求するのは止めましょうよ。

今のオリンピックのスポンサー疑獄事件。

なんでもかんでも、裏でお金が動いている。オリンピック精神もあったもんじゃない。

 戦争が終わっていない・・んですよ。

戦争が終わっていないのに、そのことを憂慮して生きていくことが、人間としての生き方ないんじゃないんですか・・と言いたい。

 美味い飯を食べたい。いい家に住みたい。カッコイイ外車に乗りたい・・それもいいでしょ。でも、今・・この世界には、ご飯も食べられず、家も無く、裸足で歩いている人たちが大勢いる。

 そう・・、考えたら・・もう少し、質素に暮らしてもいいんじゃないのか・・と思うのです。

 私は、聖人でも宗教家でも何でもないですから、清廉潔白などとは言えるはずもありません。もちろん、美味いごはんも食べたいし、温泉に入ってゆっくりもしたい。でも、・・気持ちのどこかに、世界の苦しんでいる人のことを頭から話してはいけないと思っています。

 財力も何もないから、思ってあげることしかできませんが、せめてそれだけでもしなければと思っています。

 

他人事じゃない。

自分のこと、自分の周りの人たちのことだと・・そう思わなければ・・。

そういう世の中にならなければ・・程なく、この世界は崩壊するでしょうね。

 

 

 

自殺幇助

寝ながら手を上げまーす。


 フランスのジャン・リュック・ゴダール監督が91歳で亡くなった。

死に方は、自殺幇助によるものだ。

つまり、本人が自殺したいと、本人の意志で申し出て、それを医師が了承して薬で安楽死させたのだ。

 これは、理想的な死に方の一つだと思う。

突発的な不慮の死によらなければ、(普通の)人間は、自らの死を自らの意志で確定させることができない。

それは、おかしい。

誕生も、自分の意志で行われず、死までも自分の意志で行われないというのは悲しいことだ。

 生きてきた意味を考えるだけでも苦悩を伴うのに、最期くらいは自由にして欲しいと思う。そう願っている人は、ゴダールだけではないはずだ。

 人間の良心を信じているとは上っ面だけで、とどのつまり、残された人間たちのことしか考えていない。

せめて、最期だけは、自分の意志が活かされてほしいと思う。

ゴダールはスイスで亡くなった。

スイスは自殺幇助が認められているらしい。

 安楽死は、自殺とは違う。

自殺は、苦痛を伴う場合が多い。

もちろん、それ程の苦痛を伴わない自殺の方法もあるのだろうが、どうしてもネガティブなイメージが付きまとう。

社会的に、自ら死を選択することが認められていないからだろう。

繰り返しになるが、どうして、自分で死を選択してはいけないのだ。

もう、この世に自分の存在が必要ないと感じたら、・・死を選択してどうして悪いのだ? 自殺なる不当な行為によらずとも、周囲から祝福を受けて、この世とおさらばできたらどれほど幸福な気持ちになるだろうか。

 生きている意味を感じないままに、生きながらえることがどれだけ不快な時間だということを・・。

みなに、喜ばれて死ねるなら・・こんな有難いことはない。

自分の意志の及ばない「誕生」だけが、周囲の祝福を受けるのはおかしい。

人生の最後だって、祝福してもらわなくては!

ゴダールは、自分意志で、自分の最期を締めくくった。

すばらしい最期だったと思う。

不登校

どうして、学校行かないの?


 不登校の割合が多くなっている。

昔と比べたら、・・というか、私らの時は不登校は学校にいても一人、二人だった。

 今は、クラスに少なくても、二、三人はいる。

保健室登校を含めれば、もっと増えてくる。

 これは、一体どうしてなのか・・?

私見だが、まずは、教育システムを含め「社会」の体制問題だろう。

そして、その「社会」の影響を受けた「親」の問題。

 どういうことかと言えば・・

ここ10年くらいだろうと思われるが、「多様性」を重視する考えが世の中に浸透していった。

世界に一つだけの花』なる歌が大ヒットした。

子供達は、みんなオンリーワンなのだ・・とそのまま受け取った。

親も、子供達も・・。

結果、成長と共に、オンリーワンの存在が、認められなくなった時、

「僕は(私は)オンリーワンなんだから!」と、社会に合わせられない子供たちが続出した。

「オンリーワン」の私にしか出来ない仕事・・などあるわけがない。

今の世の中は、残念ながら、ナンバーワンを求めている。

食べていくには、出来るだけナンバーワンに近づかなければいけない。

ここに、埋めることの出来ない溝ができた。

私はそう思っています。

 

「多様性」すなわち「独自性」の尊重は・・理想であって現実的ではありません。

その考えは、額面的には素晴らしいことではあるのだが、過度に個人を守り過ぎる・・という状態を生み出してしまうからです。

学校で・・

昔は、成績は廊下の壁に張り出されたりしたが、今はない。

クラスも、特別補講などになると、成績順にクラス編成された。

それもない。

高校の合格発表も、個人名を上げることは無くなった。

・・なのに、

スポーツ関係の、記名発表はどんどん行う。

○○大会、優勝。○○○○君(さん)

フルネームで垂れ幕が下げられたりする。

これは、一体、どういうことなのか。

勉強で頑張った人間への評価はなくて、どうしてスポーツだけ、あれほど堂々と公表して評価を前面に出すのだ。

不思議でならない。

これは、誰への配慮なのだ。

勉強の評価はだめで、どうしてスポーツはいいのだ?

 

勉強の差別はだめで、スポーツの差別はよし。

何なんだ、そのわけのわからない考えは。

 

・・過保護の親がいて、それを容認する社会があって、多様性をはき違えるメディアがあって・・

そして、国は弱っていく。

日本は、間違いなく、このまま弱っていくに違いない。

昔に戻れとはいはない。

そんなことは無理だから。ただ、なんでもかんでも、他人のせいにする習慣はやめるべきだ。

不登校になったのは、学校のせいだ・・と、他人に丸投げせず、親の方にも何か落ち度がなかったのか、もっと、考えるべきだ。

もちろん、学校の先生がみな聖人ではない。

私も子供の頃、理不尽な教師に不当な扱いを受けたことが何度もある。

が、不登校にはならなかった。

友達がいた。他のいい先生もいた。親も見守ってくれていた。スポーツもあった。勉強もそれなりにした。・・日常が多面的だった。

地域のネットワークが機能していた。

 今は、勝手に学校の敷地内に、地元の人間でも入ることは許されない。

そんなので、地域のネットワークなど働くはずもない。

この、おかしさを・・どうして、見過ごしてしまうのか・・

「社会」の体制には、抗えないということか・・

 そういうものなのか・・残念に思うしかないのか。